第4章:水たまりの向こう側
もくじ
~排泄の自立と失敗の受容~
1. トイレという名の取調室
2歳児クラスのトイレ。そこは時として、子どもたちにとっての「取調室」と化す。 時刻は午前10時。活動の合間の「一斉トイレタイム」だ。
鈴木は、便座に座りながら泣きべそをかいているハルト(2歳10ヶ月)を見下ろしていた。
「ハルトくん、出るまで出られないよ。さっきオシッコしたそうな顔してたじゃない」
ハルトは「でない、でない」と足をバタつかせている。 鈴木は時計を見た。もう10分も座らせている。次の活動が始まってしまう。 焦りが言葉を鋭くさせた。
「みんなパンツになってるよ。ハルトくんだけ赤ちゃんのオムツでいいの? お兄さんパンツ履きたいって言ってたよね?」
それは「励まし」の皮を被った「脅し」だった。 ハルトはさらに大きく泣き出した。排泄どころではない。恐怖と屈辱で体が萎縮していた。
「鈴木先生」 入り口に芦田先生が立っていた。芦田はバスタオルを手に持ち、静かに、しかし有無を言わせぬ声で言った。 「その子は今、トイレを『罰を受ける場所』だと記憶しようとしています。すぐに降ろしてあげてください」
2. 排泄は「訓練」ではない
ハルトのオムツを替え、落ち着かせた後。芦田先生は鈴木に問いかけた。
「鈴木先生。あなたは、上司に『今すぐここで企画書を出しなさい。出すまで部屋から出しません』と言われて、良いアイデアが浮かびますか?」
「いや、そんな追い詰められたら無理です」
「排泄も同じです。リラックスしていなければ、出るものも出ません。多くの保育士が『トイレトレーニング』という言葉の呪いにかかり、これを軍事訓練のように捉えています」
芦田先生はハルトの方を見た。 「排泄の自立に必要なのは、膀胱の機能的な成長と、本人の『あ、出そう』という感覚です。これは教え込んでできることではなく、**『満ちるのを待つ』**ものです」
「でも、お母さんが焦ってるんです。『家ではできるのに、園ではどうしてですか?』って……」
「だからといって、園で子どもを追い詰めて良い理由にはなりません。私たちが使うべき魔法は、『出させる魔法』ではありません。『失敗を成功に変える』魔法です」
3. 魔法その1:『感覚の肯定(出たね)』
翌日。ハルトは遊びの最中に、立ったままお漏らしをしてしまった。床にじわじわと水たまりができる。 鈴木は反射的に「あーあ!」と大きな声を出してしまった。 (しまった、またやってしまった……)
ハルトがビクッとして、悲しそうな顔で立ち尽くす。 その時、芦田先生がすかさず割って入った。芦田は床を拭きながら、ハルトに笑顔でこう言った。
「ハルトくん、オシッコ、出たねえ!」
鈴木は耳を疑った。漏らしたのに、なぜ明るいのか? 芦田先生は続けた。 「たくさん出たね。お腹、スッキリしたでしょう?」
ハルトはおずおずと頷いた。「……うん、スッキリした」 「よかったねえ。バイキンさんが出ていってくれたんだね。じゃあ、キレイなパンツに着替えようか」
着替え室で、芦田先生は鈴木に解説した。 「『あーあ』と言われると、子どもは『排泄=悪いこと』と学習し、隠れてするようになったり、我慢して膀胱炎になったりします」 「でも、漏らしたことを褒めるんですか?」 「褒めるのではありません。**『事実を肯定』**するのです。『出た』という感覚を本人が自覚することが、自立への第一歩です。漏らした時こそ、『出た感覚』を教える最大のチャンスなんですよ」
4. 魔法その2:『個別の招待状(インビテーション)』
それから数日、鈴木は思い切った作戦に出た。 「一斉トイレタイム」の廃止だ。全員をぞろぞろとトイレに連れて行き、出ない子を座らせるのをやめた。
その代わり、**『個別の招待状』**を使った。
モジモジしている子、遊びがひと段落した子を見極め、こっそりと耳打ちする。 「ねえ、今のうちにトイレ行っとくと、その後もっと遊べるよ」 「トイレで座って、ちょっと休憩しない?」
ハルトに対しても、「トイレ行きなさい」とは言わなかった。 ある日、ハルトが自分で股間を押さえているのを見て、鈴木はただトイレのドアを開けっ放しにし、目が合った瞬間にニコッと笑って手招きした。言葉はなかった。 (来てもいいし、来なくてもいいよ)
その空気感が伝わったのか、ハルトは自らトコトコとトイレに入っていき、便座にまたがった。 そして――。
チョロチョロ……。 小さな音が響いた。
「あっ」 ハルトが自分の股間を指差した。 鈴木は、以前のような大げさな拍手や「すごい!」という絶叫はしなかった。代わりに、深く、温かく頷いて言った。
「出たね。スッキリしたね」
ハルトは誇らしげに「うん! でた!」と笑った。 それは、大人の強制ではなく、ハルト自身の体が成し遂げた成功体験だった。
5. ママへの報告
夕方、お迎えに来たハルトの母親に、鈴木は報告した。 以前なら「今日は一度もトイレでできませんでした」と謝っていただろう。 でも、今日は違った。
「お母さん、今日ハルトくん、お漏らしした後に『出た!』って自分で教えてくれたんですよ。オシッコが出る感覚、しっかり掴んでます。大きな一歩ですよ」
母親の顔から焦りの色が消え、笑顔が戻った。 「そうですか……! 教えてくれたんですね」
事務室に戻った鈴木に、芦田先生がお茶を出しながら言った。 「排泄は、人間の最もプライベートで、尊厳に関わる行為です。それを守るのが私たちの仕事」
「はい。トイレは取調室じゃなかったですね」
鈴木はハルトの成長記録にペンを走らせた。 『排泄・×』ではなく、『排泄・自ら意欲を見せる』と。



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