第5章:言葉にならない叫び
もくじ
~噛みつき・ひっかき・トラブル対応~
1. 密室の事件
「ギャーッ!!」
午前11時。自由遊びの時間に、保育室を引き裂くような悲鳴が響いた。 鈴木が振り返ると、2歳のヒナが腕を押さえて泣き叫び、その横で同じ2歳のダイキが仁王立ちしていた。 ヒナの腕には、くっきりと赤い歯形がついている。
「またダイキか!」
鈴木は血相を変えて飛んでいき、ダイキの両肩を強く掴んで引き離した。 「噛んだらダメって言ってるでしょ! 痛いことしちゃダメ!」
ダイキは無表情で鈴木を見ている。その態度が、鈴木の火に油を注いだ。反省していない。 「ヒナちゃんに『ごめんなさい』は!? 謝りなさい!」
鈴木はダイキの頭を無理やり下げさせようとした。ダイキは体を硬くして抵抗する。 (このままじゃ、噛みつき癖が直らない。親になんて説明すればいいんだ……)
その時、ヒナの手当てを終えた芦田先生が、ダイキの背中に優しく手を添えた。 「鈴木先生。無理やり謝らせても、この子は『自分が何をされたか』しか記憶に残りませんよ」
2. 彼はモンスターではない
昼休憩。鈴木は氷嚢(ひょうのう)を作りながらため息をついた。 「芦田先生、ダイキは今月でもう5回目です。完全に『噛みつき癖』ですよ。厳しく叱って止めないと、他の子が危なくて」
「鈴木先生。ダイキ君は、モンスターではありません」 芦田先生は静かに言った。 「彼は、言葉の使い方がまだ分からない外国人のようなものです」
「外国人……ですか?」
「ええ。もし先生が、言葉の通じない国で、自分のパスポートを取り上げられそうになったらどうしますか? 言葉で抗議できませんよね。手が出るか、噛みつくかして必死に守ろうとしませんか?」
鈴木は想像した。確かに、極限状態ならそうするかもしれない。
「噛みつきやひっかきは、攻撃ではありません。**『言葉にならない叫び』**です。『嫌だ』『貸して』『どいて』……それらの言葉が口から出る前に、衝動が歯に行ってしまうのです。叱るだけでは、彼は『叫び方』を封じられ、余計にストレスを溜め込むだけです」
「では、どうすれば……」
「魔法を使いましょう。先生が、彼の**『翻訳機』**になるのです」
3. 魔法その1:『翻訳機(代弁)』
翌日。おもちゃの取り合いが始まった。 ダイキが、ヒナの持っている青い車のおもちゃをじっと見ている。手が伸びる。ヒナは渡さない。 ダイキの顔が赤くなり、口が開く。噛む寸前だ。
鈴木は滑り込み、ダイキとヒナの間に割って入った(これは物理的な壁だ)。 しかし、以前のように「ダメ!」とは怒鳴らなかった。
代わりに、ダイキの顔を見て、穏やかに、しかしはっきりとこう言った。
「ダイキくん、『貸して』だったね。」
ダイキの動きがピタリと止まった。 鈴木は続ける。 「その青い車、使いたかったんだよね。どうしても遊びたかったんだよね」
ダイキの瞳が潤み、小さく頷いた。 「……うん」
「そうか。使いたかったか。でも、ガブッとしたらヒナちゃん痛いよ。口じゃなくて、言葉で言おう。『貸して』って」
ダイキはまだ興奮していたが、噛もうとする衝動は消えていた。 自分の「怒り」や「欲求」を、鈴木が見事に**翻訳(代弁)**してくれたからだ。 「分かってもらえた」という満足感が、攻撃衝動を鎮火させたのだ。
4. 魔法その2:『心のバリケード(環境構成)』
トラブルが落ち着いた後、芦田先生は部屋全体を見渡して言った。 「鈴木先生、もう一つ魔法をかけましょう。トラブルが起きにくい環境を作るのです」
「環境、ですか?」
「今、広いスペースにおもちゃが散乱しています。これだと子どもは走り回り、ぶつかり、奪い合います。**『エリア』**を分けましょう」
二人は棚や段ボールを使って、部屋を区切った。 「車で遊ぶコーナー」「おままごとのコーナー」「絵本のコーナー」。 それぞれの空間を狭くし、落ち着ける「隠れ家」のような場所も作った。
すると、子どもたちの動線が整理され、無用な衝突が激減した。 ダイキも、狭いスペースで車のおもちゃに集中している。背中が守られている安心感があるからか、以前のようにキョロキョロと他人の物を狙うことが減った。
「子どもは、広すぎると不安になり、狭すぎるとイライラします。適切な**『心のバリケード(居場所)』**を作ることが、最大の防御なのです」
5. 涙のわけ
夕方、ダイキがまたトラブルになりかけた。 今度は、友達にブロックを壊されたのだ。ダイキの手が出そうになった瞬間、鈴木は叫んだ。
「ダイキ! 『やめて』だね!」
その声を聞いた瞬間、ダイキの手が止まった。 そして、ワァーッと大声で泣き出した。
噛みつく代わりに、泣いたのだ。 それは、「悔しい」という感情を、噛むことではなく「泣くこと(感情の表出)」で表現できた瞬間だった。
鈴木はダイキを抱きしめた。 「悔しかったね。一生懸命作ったんだもんね。『やめて』って言いたかったね」
ダイキは鈴木の腕の中で、何度も頷いた。 鈴木は思った。 (今まで、この悔しさを無視して、ただ『悪い子』扱いしてごめんね……)
6. エピローグ:守るべきもの
お迎えの時、鈴木はダイキの母親に伝えた。 「今日、ダイキくん、お友達とトラブルになりそうだったんですが、手を出さずに我慢して、気持ちを教えてくれたんですよ。すごく頑張りました」
母親は驚いた顔をして、それからホッとしたように笑った。 「家でもすぐ噛むので悩んでたんです……。そうですか、頑張ったんですね」
被害者を出さないことは絶対だ。しかし、加害者になってしまった子の心を守ることも、同じくらい大切だ。 鈴木は「翻訳機」として、明日も子どもたちの言葉にならない声に耳を澄ませようと誓った。



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