第10章:「貸して」の強制
もくじ
~物の取り合いと所有欲求~
1. 終わらない争奪戦
「キーッ! 僕の!」 「貸してよ! さっきからずっと持ってるじゃん!」
夕方の自由遊びの時間。3歳児クラスの電車コーナーは、今日も戦場だった。 トラブルの中心にあるのは、カゴの中に一台しかない**「ドクターイエロー(黄色の新幹線)」**だ。
タカシは、そのドクターイエローを胸に抱え込み、誰にも触らせまいと威嚇していた。もう30分以上もキープしている。走らせるわけでもなく、ただ持っているだけだ。 周りの子どもたちが「先生、タカシくんが貸してくれない!」と訴えてくる。
鈴木はため息をつきながら介入した。 「タカシくん、ずっと持ってるでしょ? みんな待ってるんだよ。『どうぞ』は?」
タカシは首を激しく横に振る。「イヤだ! まだ使う!」 「使ってないじゃない。抱っこしてるだけじゃない。みんなの物でしょ? 独り占めは意地悪だよ。ほら、ケンジくんに『いいよ』って貸してあげなさい」
鈴木は、タカシの手から無理やり電車を引き剥がそうとした。 タカシは火がついたように泣き叫び、鈴木の手を叩いた。 「イヤだー!! 僕のー!!」
その言葉に、鈴木のカッとなったスイッチが入った。
「僕のじゃない! 保育園のでしょ!!」
鈴木は強い口調で言い放ち、半ば強引にドクターイエローを取り上げた。 タカシの手から電車が離れる。鈴木はそれをケンジに渡した。
ケンジは喜んだが、タカシは部屋の隅で丸まり、恨めしそうに鈴木を睨みつけていた。 (なんでこんなに頑固なんだ。貸し借りができないと、年長さんになれないぞ……)
2. コップの水
「鈴木先生。今の対応は、タカシくんから『奪った』ことになりますよ」
いつものように、芦田先生が静かに声をかけてきた。 「でも芦田先生、30分も独占してたんですよ? しかも『僕の』って言うから、公共の物だということを教えないと……」
「いいえ。**『自分のものだ』という感覚(所有感)**が満たされていない子に、他者へ譲ることはできません」
芦田先生は、空のコップを指差すジェスチャーをした。 「タカシくんの心は、まだ『自分』で満たされていません。自分の欲求が満たされて、コップの水が溢れた時に初めて、その溢れた分を『どうぞ』と人に分け与えることができるのです。今の彼は、喉がカラカラなのに水を奪われた状態です」
「じゃあ、一生貸さなくていいってことですか?」 「まさか。**『貸さなくていい権利』**を保証することで、逆に『貸せる』ようになるのです」
3. 魔法その1:『代理の「まだ」』
翌日、また同じような場面が訪れた。タカシがドクターイエローを握りしめている。 友達が「貸して」と手を出す。タカシが硬直する。
ここで鈴木は、以前のように「貸してあげなさい」とは言わなかった。 タカシと、貸してほしい子の間に入り、貸してほしい子に向かってこう言った。
「ごめんね。タカシくん、まだ使いたいんだって」
タカシが驚いて顔を上げた。 (え? 怒られないの? 保育園のだから貸せって言われないの?)
鈴木は続けた。 「だから、タカシくんが終わるまで待っててね。先生と一緒に他の線路作って待とうか」 貸してほしい子も、先生にはっきり言われると「そっか」と諦め、別の車両で遊び始めた。
タカシは、電車を強く握りしめたまま、呆然としていた。 「僕の気持ち、守られた……」という安堵感が、彼の強張った肩を緩ませていった。
4. 魔法その2:『満足の保証(キープ)』
しかし、ただ待たせるだけでは解決しない。 芦田先生はもう一つの魔法を用意していた。**「車庫(パーキング)」**だ。
「タカシくん、給食の時間だけど、そのドクターイエローどうする?」 いつもなら「片付けなさい、みんなの物だから」とカゴに戻させる場面だ。 タカシは不安そうにする。「……片付けたくない。誰かに取られちゃう」
「じゃあ、ここに入れておこう」 鈴木は、タカシの名前を書いた小さなカゴ(車庫)を持ってきた。 「ここは『タカシくん専用の車庫』だ。ここに入れておけば、給食の後も、タカシくんが続きを遊べるよ。先生が守っておくから」
「……ほんと?」 「ほんとだとも。これは君だけのものだ」
タカシは安心した表情で、電車を車庫に入れた。 「誰かに取られるかもしれない」という恐怖(欠乏感)から解放された瞬間だった。
5. 溢れ出す優しさ
それから数日後。 タカシは相変わらず電車で遊んでいた。 そこに、年下の男の子が近づいてきて、ドクターイエローを欲しそうに見つめた。
鈴木が「まだ使いたいんだって」と代弁しようとした、その時。
タカシがふと、手元のドクターイエローを、その子に差し出した。 「……これなら、いいよ」
鈴木は驚愕した。あの強欲だったタカシが? タカシは言った。 「僕、こっちの赤い電車にするから。それは貸してあげる」
それは、大人が強制した「どうぞ」ではない。 自分の遊びが十分に守られ、満足し、心に余裕ができたからこそ生まれた、自発的な**「どうぞ」**だった。
6. エピローグ:貸せる子は、満たされた子
鈴木は、タカシの頭を撫でた。 「タカシ、かっこいいな。優しくできたな」 タカシは照れ臭そうに鼻をこすった。
事務室で、鈴木は芦田先生に報告した。 「芦田先生、コップの水が溢れました。強制しなくても、子どもは自分で分け与えることができるんですね」
芦田先生は頷いた。 「『自分のもの』が保証されて初めて、『みんなのもの』が理解できるのです。遠回りに見えて、それが社会性への一番の近道なんですよ」
鈴木は日誌に書いた。 『おもちゃのトラブル・減。子どもたちが譲り合い始めたのは、大人が「これはみんなの物だ」と正論を言うのをやめたからかもしれない』
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