第9章:モンスターの正体
もくじ
~保護者支援とクレーム対応~
1. 嵐の夕暮れ
午後6時半。延長保育のお迎えの時間。 保育室のドアが荒々しく開いた。
「先生! ちょっとどういうことですか!」
入ってきたのは、4歳のケンタの母親だ。彼女は常に眉間に皺を寄せ、何かにつけて園に文句を言ってくる、いわゆる「要注意人物」だった。 鈴木は身構えた。 (今日は何だ? 怪我はさせてないはずだけど……)
母親は、ケンタの通園バッグを突き出した。 「昨日入れたはずの着替えのズボンが入ってないんですけど! これで3回目ですよ? ちゃんと管理してるんですか? 忙しいからって手を抜かないでください!」
鈴木は頭を下げた。 「申し訳ありません。確認したつもりだったのですが……」 「『つもり』じゃ困るんですよ! こっちは仕事で疲れて帰ってきて、洗濯しようと思ったら無い。このイライラ、分かりますか!?」
母親の剣幕に、周りの子どもたちも怯えている。ケンタも俯いて小さくなっていた。 鈴木はひたすら謝りながら、心の中で毒づいていた。 (たかがズボン一枚で、そこまで言わなくても……。こっちだって必死にやってるんだ。完全にモンスターペアレントだ……)
2. 怒りは「二次感情」
子どもたちが帰った後の事務室。鈴木はぐったりと机に突っ伏していた。 「はぁ……。ケンタ君のお母さん、もう無理です。理不尽すぎます。あの人はモンスターですよ」
残業をしていた芦田先生が、眼鏡を外して鈴木の方を向いた。 「鈴木先生。保育の現場に『モンスター』はいません」
「いや、いますよ! 自分の機嫌で怒鳴り散らして、こちらの事情なんてお構いなしで……」
「それは、彼女が**『困っている人』だからです」 芦田先生は静かに言った。 「心理学では、怒りは『二次感情』**だと言われています。怒りの奥底には、必ず『一次感情』という、本当の気持ちが隠れているんです」
「本当の気持ち?」
「ええ。『寂しい』『悲しい』『不安』『分かってほしい』……。それらのSOSが、うまく言葉にできなくて『怒り』という形に変形して爆発しているのです。彼女は今、何かに怯えているのかもしれません」
3. 魔法その1:『怒りの氷山(感情の分解)』
芦田先生は、紙に氷山の絵を描いた。水面に出ている部分に「怒り」と書き、水面下の巨大な部分を指差した。
「鈴木先生、あのズボンの件で、お母さんが本当に言いたかったことは何だと思いますか?」
鈴木は考えた。 「ズボンをなくされて困る、ということでしょうか」 「それもありますが、もっと奥です。彼女はシングルマザーで、朝早くから夜遅くまで働いていますよね」
鈴木はハッとした。 「……余裕がない?」
「そうです。『私はこんなに必死で働いて、完璧に準備をしているのに、なぜ園は私の苦労を台無しにするの?』『誰も私を助けてくれないの?』という**『孤独』と『焦り』**が、水面下に隠れているのではないでしょうか」
「なるほど……。僕への攻撃じゃなくて、SOSの叫びだったのか」
「そうです。相手をモンスター(敵)だと思うと、こちらも身構えて『防戦』か『反撃』になります。でも、相手を『困っている親』だと思えば、**『支援』**のマインドに変わります。これが一つ目の魔法です」
4. 魔法その2:『アイ・メッセージと労い(ねぎらい)』
「でも、実際に怒鳴られたらどう返せばいいんですか? 言い訳すると火に油ですし」
「二つ目の魔法を使いましょう。正論で戦うのではなく、感情に寄り添うのです」
芦田先生は具体的なフレーズを教えてくれた。 「まず、事実(ズボンがないこと)は謝罪します。でも、その後に必ず**『労い(ねぎらい)』**の言葉をサンドイッチするのです」
5. 鎧(よろい)が溶ける時
翌日の夕方。やはりケンタの母親はピリピリしていた。 「先生、ケンタ、今日給食残したって聞いたんですけど。栄養バランス考えてるんですか? 家だとなかなか野菜食べてくれないから、園でしっかり食べさせてもらわないと困るんですけど」
また始まった。鈴木は深呼吸をした。 (この人はモンスターじゃない。仕事と育児の両立で、余裕がないお母さんだ)
鈴木は、以前のような「食べさせようとはしましたけど、本人が……」という言い訳をしなかった。 代わりに、母親の目を見て、穏やかに語りかけた。
「お母さん、お仕事お疲れ様です。毎日お忙しいのに、ケンタ君の栄養のこと、本当に真剣に考えてらっしゃいますよね。すごいです」
母親は虚を突かれた顔をした。「え? いや、まあ……」
鈴木は続けた。 「お母さんが一生懸命だからこそ、園での様子が心配になるんですよね。私の配慮が足りず、昨日のズボンの件も含めて、余計な心配をおかけして申し訳ありませんでした。私も、お母さんと一緒にケンタ君の成長を支えたいんです」
これは「アイ・メッセージ(私はこうしたい)」だ。 敵対するのではなく、同じ方向を向くパートナーでありたいという宣言。
その瞬間、母親の表情が歪んだ。 そして、目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい、先生。私、最近仕事がうまくいかなくて……。ワンオペで、料理も手抜きになっちゃってて……。だから、せめて給食だけはって……」
怒りの鎧が、ガラガラと崩れ落ちた瞬間だった。 その場にいたのは、モンスターではなく、自分の不甲斐なさを責め、疲れ果てた一人の人間だった。
「大丈夫ですよ。ケンタ君、園では**『ママの作る卵焼き、世界一おいしいんだぞ!』**って、いつも自慢げに話してますよ。ママのご飯が大好きみたいです」
鈴木が言うと、母親は「……そんなこと、言ってるんですか」と呟き、その場に泣き崩れた。 完璧じゃなくてもいい。自分の愛情がちゃんと子どもに伝わっていると知った安堵の涙だった。
6. エピローグ:同志として
それから、母親の態度は劇的に変わった。 もちろん、細かい要望はある。しかし、それは「攻撃」ではなく「相談」になった。
「先生、ここどうしたらいいと思います?」 「先生も大変ですね、いつもありがとう」
鈴木は気づいた。 保護者支援とは、親の言うなりになることではない。 親が抱える「孤独」に気づき、「あなたは一人じゃないですよ」とメッセージを送り続けることなのだと。
事務室で、鈴木は芦田先生に報告した。 「芦田先生、モンスターはいませんでした。泣いているお母さんがいただけでした」
芦田先生は優しく微笑んだ。 「よかったですね。これで鈴木先生とあのお母さんは、ケンタ君を育てる『戦友』になれましたね」
鈴木は連絡帳にペンを走らせた。 事務的な報告の下に、一言添える。
『給食の時間、「ママの卵焼きが食べたいなあ」って嬉しそうに話していましたよ。お母さんのご飯が一番の元気の源なんですね』
書き終えた連絡帳を閉じる。 これをお母さんが読んだ時、少しでも肩の力が抜ければいい。 鈴木は、お迎えに来るお母さんに「お疲れ様です」と声をかける瞬間を、少し楽しみに待つようになった。



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