第6章:「早くして」の禁止
もくじ
~活動の切り替えと大人の都合~
1. 終わらない身支度
午前9時50分。お散歩に行く前の身支度の時間。 保育室は、靴下を履こうとする子、帽子を探す子、まだ遊びたくて逃げ回る子でごった返していた。
鈴木は時計を睨みつけていた。 (まずい、もう10分押しだ。このままだと公園で遊ぶ時間がなくなる……)
目の前では、3歳のソウタが、裏返しになった靴下と格闘しながら、ぼーっと宙を見つめている。手が止まっている。
「ソウタ、早くして! みんな待ってるよ!」
鈴木の大きな声に、ソウタはビクッとして慌てて靴下を引っ張ったが、焦ったせいで余計に足が入らない。 「もう、遅いなあ」 鈴木はソウタの手から靴下を奪い取り、強引に履かせた。 「ほら、帽子かぶって! 急いで!」
部屋のあちこちで、鈴木の「早く!」「急いで!」という怒号が響く。 しかし、不思議なことに、鈴木が叫べば叫ぶほど、子どもたちの動きは鈍くなり、部屋の空気は重く淀んでいった。
「鈴木先生」 帽子を配っていた芦田先生が、鈴木の横に来てささやいた。 「『早くして』という言葉は、子どもを早く動かす魔法ではありません。子どもをパニックにさせて、時間を止める呪いですよ」
2. 時計の針と心の針
「でも、時間を守る習慣も大切でしょう? 社会に出たら待ってくれませんよ」 鈴木は反論した。
「それは大人の理屈です」 芦田先生は即答した。 「まだ時計も読めない子どもたちにとって、『早く』という言葉は具体性がなく、ただ『先生が怒っている』という情報しかありません。怒られている不安で脳が萎縮し、手先が不器用になる。だから余計に時間がかかるのです」
「じゃあ、どうやって時間を守らせるんですか?」
「子どもが『動きたくなる』仕掛けを作りましょう。そして、先生自身の時間の使い方を変えるのです」
3. 魔法その1:『見通しの予告(カウントダウン)』
翌日のお片付けの時間。 いつもなら「はい、おしまい! 早く片付けて!」と号令をかけるところだ。 しかし、鈴木は芦田先生に教わった通り、5分前から動いた。
「みんな、聞いてー。長い針が『6』になったらお片付けだよ。あと少し遊べるからね」
時計の針を見せる。まだ遊んでいい、という許可を与える。 そして直前。 「さあ、あと10数えたらおしまいにするよ。一緒に数えよう。いーち、にー、さーん……」
すると、「まだ遊びたい!」と駄々をこねる子が激減した。 突然楽しみを奪われる(青天の霹靂)のではなく、心の準備期間があったからだ。
「じゅー! おしまい!」 鈴木が言うと、子どもたちは「はーい」と納得して箱にブロックを戻し始めた。 「早く!」と急かす必要はなかった。ただ、**見通し(予告)**があれば、子どもは自分で心の切り替えができるのだ。
4. 魔法その2:『競争ではなく共走(伴走)』
そして、問題の身支度タイム。 ソウタは今日も靴下で苦戦していた。 鈴木は「早く」と言いかけた口をぐっとつぐんだ。
(靴下を奪っちゃダメだ。この子の『自分でやりたい』を奪うことになる)
鈴木はソウタの横に座り込み、**「競争」を仕掛けるのではなく、「楽しいゴール」**を見せることにした。
「ソウタ、今日の公園、ドングリ落ちてるかなあ?」
ソウタの手が止まり、目が輝いた。「ドングリ? あるかな?」 「うん。早く行かないとリスさんが拾っちゃうかもよ。よし、先生も靴下履こうっと。どっちがカッコよく履けるかな?」
「競争」させて焦らせるのではない。鈴木も一緒に準備をするフリをして、横で**「共走(伴走)」**したのだ。 ソウタは「僕も行く!」と猛烈な勢いで靴下と格闘し始めた。
「できた!」 かかとは少しズレていたが、ソウタは自分で履ききった。 「やったなソウタ! 早かったじゃん!」 「うん! ドングリ拾いに行く!」
そこには、やらされた徒労感ではなく、目的へ向かうワクワク感があった。
5. 「待つ時間」という貯金
全員の準備が終わった。時計を見ると、昨日より5分も早かった。 「早くして」と一度も言わなかったのに、だ。
玄関で靴を履きながら、芦田先生が笑った。 「鈴木先生。大人が『待つ』ことは、時間を無駄にすることではありません。子どもの『自分でできた』という自信を貯金している時間なんですよ」
「自信の貯金……」
「ええ。その貯金があれば、次はもっと早くできるようになります。急がば回れ、ですね」
鈴木は、列の先頭で「出発進行!」と叫ぶソウタの背中を見た。 その背中は、昨日よりも少しだけ大きく、頼もしく見えた。



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