『保育の魔法』2

読み物・雑記

第2章:「完食」という呪い

~給食指導と「食」の権利~

1. 沈黙のレストラン

給食の時間。

それは中堅保育士の鈴木にとって、1日の中で最も憂鬱な「戦場」だった。

今日のメニューは「ピーマンの肉詰め」。

4歳児クラスにとっての難敵だ。

時計の針は12時40分を回っている。

もうすぐ片付けの時間だ。

鈴木は、皿の上のピーマンを前にして石のように固まっているユイの前にしゃがみ込んだ。

「ユイちゃん、一口だけでいいから。

これ食べないと大きくなれないよ」

鈴木の声は、優しさを装っていたが、焦りが滲み出ていた。

ユイは唇を真一文字に結び、首を横に振る。

「農家さんが一生懸命作ったんだよ? 残したら可哀想でしょ」

鈴木は畳み掛けた。

「栄養」「もったいない」「感謝」。

これらは正論だ。

だからこそ、子どもを逃げ場のない場所へ追い詰める最強の武器になる。

ユイの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

その瞬間、本来楽しいはずのランチタイムは、冷たい「強制収容所」のような重苦しい空気に包まれていた。

「鈴木先生、ちょっとよろしいですか?」

背後から芦田先生の声がした。彼女はユイの隣にそっとしゃがみ込むと、驚くべきことを言った。

「ユイちゃん、そのピーマン、今日は『見るだけ』にしておこうか」

2. 「一口」の重圧

子どもたちが午睡に入った後の休憩時間。

事務室の片隅で、鈴木は納得がいかない様子で芦田に食い下がった。

「芦田先生、あれじゃ『嫌いなものは食べなくていい』というワガママを許すことになりませんか?

偏食を直すのも保育士の仕事でしょう。

保護者からも『野菜を食べさせてください』って言われてるんです」

芦田先生は、温かいお茶を鈴木の前に置きながら静かに言った。

「鈴木先生。あなたはレストランに行って、店員さんに『これ栄養があるから全部食べなさい。

残したら許しません』と仁王立ちで監視されたら、料理を美味しいと感じますか?」

「いや、それは……美味しくないですね」

「給食の目的は、皿を空にすることではありません。

『食事は楽しい』という感覚を育てることです。

涙を流しながら飲み込んだピーマンは、その子の体には入るかもしれませんが、心には『食事=苦痛』という強烈なトラウマを残します」

「でも、一口も食べないのは……」

「その『一口』を決めるのは誰ですか?」

芦田先生は鈴木の目を真っ直ぐに見た。

「先生が決めた一口は『命令』です。

でも、子どもが決めた一口は『挑戦』になります。

ここで使うべきは、『交渉(ネゴシエーション)』の魔法です」

3. 魔法その1:『スモールステップの自己決定』

翌日の給食。

メニューは子どもたちが苦手な魚の煮付けだった。

鈴木のクラスのタケルが、案の定、箸をつけずに固まっている。

鈴木は深呼吸をした。

(昨日の芦田先生の言葉を信じてみよう)

彼はタケルの前に座り、以前のように「食べなさい」とは言わなかった。

代わりに、低い姿勢でこう問いかけた。

「タケルくん。このお魚、ちょっと手強いね。……今日は、どのくらいなら勝てそう?」

タケルは驚いた顔で鈴木を見た。

怒られない?

「……これくらい?」

タケルは箸先で、米粒ほどの身をつまんで見せた。

本当に小さな欠片だった。

以前の鈴木なら「そんなの食べたうちに入らない! 甘えるな」と怒っていただろう。

しかし、鈴木は芦田先生の教え通り、オーバーに頷いた。

「オッケー! 『米粒作戦』だね。それでいこう」

タケルはその米粒ほどの魚を口に入れ、ゴクリと飲み込んだ。

その瞬間、鈴木は笑顔で言った。「よーし、作戦成功! すごいじゃないか」

すると不思議なことが起きた。

タケルは「もう一回、米粒いけるかも」と自分から言い出したのだ。

「命令」という重石が取れたことで、子どもの心に「自発性」が戻ってきた瞬間だった。

4. 魔法その2:『美味しい鏡(ミラーリング)』

クラスの雰囲気が少しずつ変わり始めた頃、芦田先生はもう一つの魔法を教えてくれた。

「鈴木先生、給食中のご自分の顔を鏡で見たことはありますか?」

「え? いえ、必死なので……」

「おそらく、監視員の顔になっています。先生が美味しそうに食べていない空間で、子どもが食欲を湧かせるはずがありません」

芦田先生は続けた。

「『残すな』と言う代わりに、先生自身が『うわ、このニンジン甘くて最高!』と言ってみてください。子どもは言葉ではなく、大人の表情を食べて育つのです

翌日から、鈴木は机の間を歩き回る「巡回指導」をやめた。

自分の給食を、子どもの目の前で大げさなほど美味しそうに食べることに専念した。

「うーん! 今日のスープ、あったまるなぁ!」

鈴木が心底美味しそうにスープをすすると、つられるように周りの子どもたちがスプーンを動かし始めた。

「先生、僕のも美味しいよ!」「私のも!」

そこには、管理された沈黙ではなく、温かい食卓の賑わいがあった。

5. ごちそうさまの音色

数ヶ月後。 ユイはまだピーマンが苦手だ。

でも、以前のように泣いて固まることはなくなった。

「先生、今日はピーマン、ペロって舐めるだけにする」

「わかった。今日は『味見チャレンジ』だね」

ユイはちょこんと舌をつけ、「苦い!」と顔をしかめて笑った。鈴木も一緒に笑った。

皿の上にはピーマンが残っていた。

しかし、給食を終えたユイの表情は、満足感で満たされていた。

鈴木は気づいた。

「完食」という結果よりも、「自分で決めて、納得して食事を終えた」という自己肯定感こそが、子どもの最善の利益なのだと。

「ごちそうさまでした!」 元気な声が保育室に響く。

それは、鈴木にとっても「美味しい給食」の時間だった。

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