『保育の魔法3』
もくじ
第3章:「眠り」への招待状
~午睡の強制と休息の保障~
1. 戦場の静寂
午後1時15分。保育室は電気が消され、顔が見える程度に薄暗くなっていた。 しかし、その空気は「安らぎ」ではなく、張り詰めた「緊張」に満ちていた。
中堅保育士の鈴木は、布団の上でゴロゴロと寝返りを打ち続ける4歳の男児、カイトの背中を、一定のリズムで叩いていた。
(早く寝ろ、早く寝ろ、早く寝ろ……)
心の中で呪文のように唱える。連絡帳があと5冊残っている。来週の週案も手付かずだ。この子が寝てくれないと、自分の仕事が終わらない。休憩も取れない。
カイトが布団から這い出そうとした瞬間、鈴木の手は無意識にカイトの肩をグッと強く押さえつけていた。 「動かない! 目を瞑りなさい」
ドンドンドン。 トントンという優しいリズムではなく、まるで杭を打つような重い音が響く。カイトの体が強張り、呼吸が荒くなるのがわかった。それでも鈴木は手を止められなかった。焦りが、理性を奪っていた。
その時、鈴木の手首を誰かがそっと掴んだ。 芦田先生だった。暗がりの中で、芦田は静かに首を横に振った。
「鈴木先生。その手は、カイト君を寝かせようとしているのではありません。あなたの都合を押し込もうとしています。」
2. 北風と太陽
休憩室(事務室の隅)。鈴木は肩を落としていた。 「でも、芦田先生。寝てくれないと午後の活動で機嫌が悪くなるし、正直、事務仕事も進まないんです。寝かせるのが私たちの仕事でしょう?」
芦田先生は言った。 「眠気は生理現象です。排泄と同じ。大人の力で無理やりコントロールすることはできません。『眠れ!』と怒鳴られて、あなたは眠れますか?」
「……無理ですね。目が冴えます」
「そう。強制されればされるほど、人間は交感神経が刺激され、覚醒します。あなたが今やっているのは、眠くない子に『眠れ』と命令する拷問に近いことなのです」
「じゃあ、どうすれば……」
「魔法を使いましょう。北風のように強く叩くのではなく、太陽のように**『安心』**を送るのです」
3. 魔法その1:『呼吸と同調(ペーシング)』
翌日の午睡の時間。カイトはやはり目をらんらんとさせていた。 鈴木は、芦田先生から教わった一つ目の魔法を試すことにした。
以前の鈴木は、自分が決めた「トントン」の速いリズムをカイトに押し付けていた。 だが今日は違う。まず、カイトの呼吸を観察した。 カイトは興奮して、少し早めの呼吸をしていた。鈴木は、その呼吸に合わせて、ごく軽く背中に手を当て、同じリズムでかすかに揺らした。
(君のリズムはこれだね。わかっているよ)
カイトの動きに鈴木が合わせ始めると、不思議なことにカイトの体の強張りが解けてきた。「自分のペースを邪魔されない」という安心感が生まれたからだ。 そこで鈴木は、少しずつ、少しずつ、リズムをゆっくりにしていった。
吸って、吐いて。吸って、吐いて……。 カイトの呼吸が、鈴木の誘導に釣られて深くなっていく。
「寝かせよう」とするのではなく、「相手の波長に合わせ、徐々に凪(なぎ)にしていく」。 それはまるで、荒れた海が静まっていくような感覚だった。
4. 魔法その2:『許可の逆説(パラドックス)』
しかし、それでもカイトの目は開いていた。「先生、眠くない」と小声で言った。 以前なら「喋らない! 寝なさい」と制していただろう。 ここで、二つ目の魔法だ。
鈴木はカイトの耳元でささやいた。 「わかった。カイト君、今日は眠らなくていいよ」
カイトが驚いて鈴木を見た。 「え? いいの?」
「うん。その代わり、体だけ横にして『充電』しようか。目を開けていてもいいから、体を休める充電タイムにしよう」
これは心理学的な逆説(パラドックス)のアプローチだ。「寝なければならない」というプレッシャーから解放されると、人はリラックスする。そして皮肉なことに、リラックスこそが、入眠への近道なのだ。
「充電……」 カイトは天井を見つめたまま、静かになった。 「寝なくていい」と許可されたことで、カイトは「戦う」必要がなくなったのだ。
5分後。鈴木がふと見ると、カイトは安らかな寝息を立てていた。
5. 夢の世界への招待状
1時半。保育室には穏やかな寝息のハーモニーが響いていた。 無理やり押さえつけられている子は一人もいない。
鈴木は連絡帳を開いた。焦りはなかった。 「寝かせなきゃ」という執着を手放したことで、子どもたちは早く寝るようになり、結果として事務時間は確保できたのだ。
芦田先生が通りがかり、小声で言った。 「鈴木先生、今のトントン、とても優しい音でしたよ」
鈴木は照れ臭そうに笑った。 「子どもを『操作』するのをやめました。『招待』することにしたんです。夢の世界へ」
布団の中で丸まって眠るカイトの顔は、昨日の怯えた表情とは別人のように穏やかだった。 鈴木はその寝顔を見ながら、心の中でつぶやいた。 (いい夢見てね)



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